清掃を究める
今日もつぶらな瞳のシンカちゃん(まだま村の番犬)と対話。「お父さんはお仕事だからね」前足を組んでその上に頭をのせ、「ワカリマシタ」と了解のポーズ。
さぁ、それから約2時間たっぷり清掃。トイレ清掃に始まり庭掃き、草引き、最後は水まきとトイレの花活け。もうすっかり日課になり、これをしないと何かし残しているようで心落ち着かないから、習慣というのは不思議なもの。それだけでなく、楽しくて仕方がないと言えば、信じてもらえるでしょうか。その秘訣は「どんな仕事も貴い仕事、雑にするから雑事」と心につぶやくこと。
「掃除なんか誰かパートさんでも雇ってもらったらどうや。」とは友人の言。
「まだま村はあんまりキレイにしなくても、落ち葉が落ちたままというのも風情があっていいのではないですか」とはお客さまの声。各々一理ありますが、私はかたくなに清掃し続けています。ある意味で清掃を究めたいとも思っています。
道元禅師は宋に渡り、上陸前にシイタケを買いに乗船してきた、60歳ばかりの老典座(禅寺の料理長)に会って開眼します。
(道元)「あなたほどの年で、なんでそのような骨の折れる仕事をされるのですか。座禅したり、古人の禅の語録などお読みになった方がより効果のある修業になると思いますが。」
(老僧)(大笑して)「外国のよいお人、貴方はまだ修行および文字のなんたるかをよくご存知ないようにお見受けします。」
料理を作っておもてなしをすることも立派な修業だということです。私自身は人生の師、岡田種雄さんの次の言葉を人生の公案(少しオーバーに言えば)にしています。
「日々お客様をお迎えする練習してまんのや」
岡田さんは朝早く一万坪の椿山を一通り見てまわり、お客さんが来られる前に通り道の邪魔になる枝を切り払い、椿の花びらで傷んだものは事前に落としておられました。そしてその後、お客様を案内する山道の清掃。
「雨には勝てまへんわ。」雨あがりにお邪魔した時のお言葉。確かに雨が洗った後の山道は美しくすがすがしいものです。その意味が最近少しわかりかけてきた気がします。
昔はゴルフクラブで手に豆ができておりました。今は竹ボウキダコ。その手の豆をしげしげと眺めながら・・・。
(村長)

