私の書斎にはキリシタン資料館の元館長の東氏からいただいた「聖地千提寺」の色紙があります。それをいただいてからしばらくして急に東氏がお亡くなりになられたこともあり、私には氏の形見としか思えません。同時に私にわざわざ説明もなく手渡して下さったことには大切な意味があると受け止めています。
昔から千提寺は隠れキリシタンの里として、村の人たちは聖地であることを当たり前に思っていたようです。今ではそれを口にする人はいませんが、聖地・霊地であることに変わりはありません。別の言い方をすれば「いやしろ地」であり「心のふるさと」です。だからでしょうか、まだま村には赤ちゃんからお年寄りまでとにかく色々な人が訪れますが、何の違和感もなく、見事に調和がとれています。正に「和楽」の言葉通り一つに溶け込ませる力を土地そのものが持っているのです。
「いつきてもすがすがしい気持ちになれます。」とお客さんが言うのも、聖地の霊力と言えるでしょう。お客様ノートに書かれている言葉「落ち着く」「安らぐ」「くつろぐ」「癒される」「ほっこりできる」などなどもすべてそれに関係していると思います。店のオーナーや芸術家の方々の来訪も多いですが、宗教関係、スピリチュアル関係の人々も結構訪れます。聞くところによると、マニアックな人たちにとっては、「まだま村」はアヤシイということで興味津々らしいです。何かしらふしぎな気を感じるというのです。しかし、何もアヤシイことはありません。答えは簡単です。
ここ千提寺は聖地、霊地であり「いやしろ地」「こころのふるさと」であるからです。これは私が勝手に名付けたり思い込んだりしているのではありません。昔からそうであり、今もそうであるということをお伝えしておきます。文明の利器である携帯電話がここでは通じないというのも、何か守られている感じがしてなりません。おそらくケータイがつながらない喫茶店は日本中で「まだま村」だけかもしれませんね。
(まだま村 店主)