「美しい日本の心」をそのままに体現された三人の師。まだま村との関わりは深く、今も敷地内に三人の所縁あるものが残されています。
松井浄蓮 まつい・じょうれん (本名:静一/1899~1992)
終戦後、滋賀の比叡山麓に田畑を開墾し、終生百姓として自給自足を貫き、生命を大切にする生き方と農の営みを実践した。その生活信条や実践農業に共鳴した人々が多く集い、学んだ。中でも陶芸家の河井寛次郎氏との交流は深く、河合氏が松井師を「大地を造形する人」として尊敬していたという。
まだま村開村の立役者はなんと言っても90歳を過ぎても尚矍鑠としておられた松井先生である。 先生のスタート時の助けがなかったなら現在のまだま村の建物も出来上がっていなかったかも知れないし、出来ていたととしても違ったものになっていただろう。
今では想像もつかないが、元々は昼でもなお暗き鬱蒼と茂った竹やぶであった。長年放置してあったから、数千本の竹が手の付けられないほどビッシリと生えていた。 そんな場所をまだ海のものとも山のものとも解らない雲をつかむような私の話を聞いて、「今すぐやろう」と行動を起こし、竹切りの陣頭指揮をして下さったのが松井先生なのだ。10人ばかりの友人知人と共に数千本の竹を一気呵成にあっという間に切り開いた時のことは今もありありと覚えている。 その場がパーっと明るくなったと同時にその後のまだま村計画が予想外に加速し又具体化していったように思う。
尚その時竹やぶの隅から出て来た古い古い三体のお地蔵さんはまだま村の入り口の手前に丁重に祀らせてもらっている。 それにつけても竹やぶ開墾時の松井先生の実行力と行動力には今更ながら驚嘆すると共に計り知れないご恩を感じるばかりである。 比叡山の麓を大開墾し自給自足の農のいとなみを貫き通した先生の[乾坤一鍬]という言葉に集約される魂を少しでも受け継ぎ、私なりのご恩返しが出来れば本望である。
坂村真民 さかむら・しんみん (本名:昂/1909~2006)
22歳熊本で小学校教員になる。25歳で朝鮮に渡ると現地で教員を続け、2回目の召集中に終戦を迎える。21年から愛媛県で高校教師を務め、65歳で退職。
37年、53歳で月刊個人詩誌『詩国』を創刊し、平成16年95歳まで通算500号を発行する。詩は小学生から財界人にまで愛され、特に「念ずれば花ひらく」は多くの人に共感を呼び、詩碑が全国、海外にまで建てられている。
念ずれば花ひらく という言葉を見たり聞いたりした人は意外に多いと思う。 まだま村の入り口に建っているような碑が全世界に大小含めて737基もあると知ればきっと驚くに違いない。しかも存命中のことだったから、ギネスブックものと言っても誇張ではない。
念ずれば花ひらく は詩人である坂村真民先生の詩のタイトルの言葉であるが、多くの人々の共感を得て次々と碑が建っていったのである。 中でもまだま村の碑は特別で先生の思い入れも殊の外深く光栄にもこの碑に関する詩を二つも作っていただいている。 一万人のノミ入れによって十年かけて完成したことが先生の心を強く動かしたのである。十年かけたので番碑は遅いが覚えやすいようにわざわざ祝歌まで作っていただいた。532番碑なのでそれを織り込んでいる。
「いつみにきても(532)パワーをいただく碑のありがたさ」 この碑は単なる記念碑ではなく先生の魂(多くの方々をお招きして入魂式をしました。)が入った霊石であり、先生自身は真言碑と名付けておられる。 一人でも多くの方々が碑に直接触れ、思い思いに何かを念じていただければ幸いです。
岡田種雄 おかだ・たねお (1922~1993)
農業学校を卒業し、家業の農業を継ぐ。昭和21年戦地からもどり農会(今の農協)の技術指導員として活躍。
数々の功績をあげられ、農林大臣賞を初め、農林産業功労賞、農林局長など受賞。
大阪万博のアクセス道路として新御堂筋が建設されたとき、樹齢50年を越すような椿の大木が全て切り倒されていくのを見るに見かねて、連日奥さんと二人で、トラック10台分以上の椿を松の枯れた山へ移植。それ以来、人にも言えない血の滲むような努力によって30年がかりで現在の椿山が完成。椿の成木一万本(1200種)、山桜五百本、さらに日本の山野草千種類、正に野草浄土の楽園に変貌。
平成3年(1991年)「都市化で痛めつけられた樹木を山に移植し、市民の憩いの場とした」ということで、第9回朝日森林文化賞を受賞。
日本の森林界のノーベル賞とまで言われる朝日森林文化賞を受賞された岡田種雄先生。 先生との出会いのきっかけはある新聞の椿山の紹介記事だった。偶然ではあるが結果的には運命的な出会いとなった。 自宅のすぐ近所だった事もあって足しげく通っているうちにすっかり虜になってしまった。そして自然全般についてとても貴重な教示を沢山頂いた。 先生から教わったベースがあったからこそ坂村、松井両先生に出会える縁をいただけたのである。
岡田先生からはまだま村の庭作りについても色々とアドバイスをしてもらった。 まだま村の建物が完成した時には、記念樹として膝下くらいの佐保の曙の苗木を直接椿山から手植えをして下さった。この椿は椿山で育てられた1200種の中でも先生の最もお気に入りのものであった。 小さかった苗木も今では空を覆うほどの大木になっている。満開時はそれはそれは壮観で名前の通り朝の太陽が今にも昇る瞬間の美しい大空を見上げているような感動を覚える。
先生から頂いた(自然界多々無声の経)のお言葉は30年以上経って益々輝きを増してきている。 佐保の曙を眺める度に今も岡田先生の事が懐かしく思い出される。